2014年3月2日日曜日

人を導く根本は「斉家」にある

 人を導く根本は、「斉家」にある。この言葉は、『大学』を
読んでいて、すごく心に残った言葉。
「所謂其の家を斉(ととの)うるには、其の身を
修(おさ)むるに在り」とあります。

『大学』における、「家」とは、現代の我々のような核家族ではなく、何代もが一緒に
住んでいる家。一夫多妻制の時代の家でもあるので、使用人も含めると、
20人から50人には、共同生活をしている、その家のことである。
その状況下で、自分の家をととのえるというのは、なかなか難しい

自分の家を斉(ととの)えるためには、まず自分の身を修めるところから。そのためには、
「人其の親愛する所において辟(へき)す」
人は特に親しみ愛するというところにおいて偏っていく。家族というものは
偏ってはいかん。ある者を特別に親しみ愛するというふうにしてはいけない。
「其の賤悪(せんお)する所において辟(へき)す」
特に卑しんだり憎んだりすると偏ってしまい、正しくすることはできない。
「其の畏敬(いけい)する所において辟(へき)す」
特別に畏れ敬ったりすると、また偏ってくる
「其の哀矜(あいきょう)する所において辟(へき)す」
特に悲しみ哀れんだりすると、また偏ってくる
「其の敖惰(ごうだ)する所において辟(へき)す」
特に奢(おご)りたかぶって怠けると、これも偏ってくる
「故に好みて其の悪しきを知り、悪みてその美を
知る者は、天下に鮮(すく)なし」

故にその者を好んで、その欠点・短所という
ようなものを知り、また、その者を憎んで、
その美点・長所というようなものがわかる。
それをきちんとできる人は非常に天下に少ない。
「坊主憎けりゃ袈裟(けさ)まで憎い」というわけで、一度憎んだら最後まで
憎むというのが、普通である。

「孝(こう)は君に事(つか)うるゆえんなり」
家の中で親に孝行していれうということは、そのことが即君に仕えるものとなる。
「弟(てい)は長に事(つか)うるゆえんなり」
弟や妹が兄や姉に従順であるということは、世の中に出たら位の上の者や年上
の者に仕えていくもとになる
「慈は衆(しゅう)を使うゆえんなり」
親が子供を慈しむ、兄や姉が妹や弟を慈しむ、そういうことが役人となって
民衆を使っていく心立ての根本となるということ。

家の中できちんとできるものは、社会に出てから
もきちんとできる。『大学』の家と言うのが、20人
から50人ならば、やはり中小企業と同じ規模。 
会社の中での社員教育というのが、問われている。
その教育の中において、社員一人一人の美点・長所
みれるように、偏りなく接していくように心がけたい。
それが出来るよう、自分自身の身を修める必要が
ある。それは、「仁」、相手を思い、譲り合う心が、
皆で力を合わせていこうという気風が起こる。





 

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