2014年5月9日金曜日

禮(礼・れい)と道徳

最近、「禮(れい)は、礼の事である。」
ことを知り、感動する。
                                                        
本当に、何も知らない、私自身である。
よく「物事は、礼ではじまり、礼で
終わる。」と聞いているものの、礼は、
「起立!礼!着席!」と小学校の授業
の時に良く耳に入ってきたあの『礼』
でしかなく、礼=90度体を曲げる事。
という事でしか考えたことが無かった。

礼は、言葉を調べると、「節操」、
「分限」、人の根幹」、そして「自ら
の心より発する自発的規範」、「部分
と部分、部分と全体の調和・秩序を
形づくるもの」と言葉の概念は、広く。意味が深い。
 
ゆえに、禮を失すれば、全体は調和を失い、人の体であれば変調をきたし、
組織であれば系統が乱れ、物事であれば収拾がつかなくなる。

禮は示+豊で出来ている

示は神を祀る祭壇の形で多く神事をいい、豊は供え物の盛んな事をいう

春夏秋冬、各々の節目で畏敬の念をおこして神を祀り、天に祈り、大地を
踏みしめ、大自然に感謝し、それまでこれからを繋ぐ、それが禮である。

現代的な意味での禮は、表面上の恭しさや規律・言行動作ばかりが強調されるが、
そのような規定されたものは形式であって本質ではない。
禮の本質とは、素行自得であり、自己自身であり、いまそのときに心から自然と

溢れ出るところのものを尽くすことである。

また、「道徳」も同じく、私自身の小学校の「道徳の授業」のイメージが強く、
同和問題や人種差別などを思い出すだけでイメージが暗く、どちらかと言うと避けて
きた言葉、授業であった。

よくよく、見ると、「徳」の道、つまり、修身の事だったのだとこの年になって気付く。
人間力を高め、人徳を磨くための勉強が、「道徳」なのである。
今日のこれらのメッセージは、私の大好きな言葉で、締めくくりたいと思う。

人には、礼があって人の人たる所以です。
その礼の中味は至誠でなければなりません。
至誠を以て、上に対する「敬」ということになり、
下に臨むときに「愛」となります。
「敬愛」は道徳の根本であります。
礼は節であって、即ち法則には節がなければ、
もののけじめがつかなくなって秩序がなくなります。

すなわち、道徳、人間学を学ぶにあたっては、自らが、
礼を重んじ、敬愛な精神を身に着けることが、
人徳を付ける道なのです。

リーダーとして、勉強せねばならないことであります。

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