「言葉を慎む事」、45歳になってもなかなかできていない毎日である。
祝詞の勉強をして、言葉には、力があり、言葉には魂があり、目に見えない
ながらも、祝詞を読む空間の空気には、その言葉の波動や言霊が、空間一杯に
広がり、人の気持ちを落ち着かせることができる。清らかな空気ができる。
おそらく、「言葉」を空気と共に鼻から吸い込み、耳から聞き取り、肌にふれ、
さらに、祝詞を奉唱している人は、目からも入りこむのだと思う。
六根清浄大祓にもあるように、目、鼻、口、耳、手(身体)、意(こころ)の
六感で、人間は本来の自分心(魂とも直霊とも呼ぶ)に届いているのだと思う。
言葉は、魂で、発すると言葉にのって広がり見えないボールのように、
投げられている。つまり、口から出ると、戻ってこないのである。
言葉は、人を元気にも、幸せにもするが、時には、不幸、屈折して伝わる事も
ある。「口は災いの元」と言う、由縁なのだと思う。
昨日勉強した、易経の中、27番目の山雷頤(さんらいい)と言う卦がある。
頤は、「い」と読むが、顎(あご)のことである。アゴ即ち、上あごと下あごで、
口の事。頤・アゴは、転じて「養う(やしなう)」を意味する。
つまり、口から食物を入れて、自分の体を養うと同じように、
言葉を話す口=アゴ(頤)は、そのことにより、
自分の徳を養うのである。
口、言葉から、「自分の徳を養う」と言うのは、どのような事か?
結論から、書くとそれは、言葉を発する際に、話かける相手に対して、誠意を
持って話をするには、自分自身の心の中に、私心・私利・私欲が全くないこと
が大切なのである。これは、すごく難しい事、話す相手に自身の私心無く言葉
を話す。そこに、言葉を慎むということにつながるのだと思う。
自分の思い、私心を相手に伝えようと、あれ、これと枝葉を付けて話をして
しまうと、逆に幹が見えなくなり、枝、葉が、主とされてしまい、
伝えたいことが伝わらない。
言葉を慎む中に、よく考えて、幹を丁寧に伝える。
おそらくその時、自身の徳が備わり、私心が消えて、
伝えたいことが、魂とつながり、言霊となり、相手に
伝わるのだと思う。
言葉の大事を45歳にして、少し、本当に少し、わかったような感じがした。
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