2013年12月5日木曜日

器量と度量

器量と度量について、最近読んだ本にこの言葉が、出てきた。
社長は、器量が必要で、ナンバー2になる人は、度量が必要
器量と度量は、どう違うのか?気になり調べてみた。

「器量」とは、量は度量衡の量を指す。 即ち、容れる器、
これを器量という。 人にとって容れて包み込むは、内奥の情である。 
故に“器量よし”という場合には、表面的な美しさをいうより
も、内面から溢れ出る情緒的なその風韻をいう。 

深い! 内面から溢れ出る人柄か?

同じように“器量人”という場合には、度量の大にして多くの人を容れるに足る人物をいう。 
即ち、私を為さずして公、細部に拘らず、善悪を兼ね入れながらも、決して人情に背かざる
者である。 
器量人は必ず大気有り、大志有り、大義有り、見識を
有して事を為す(胆識)。

故に人はその為すところに何ともいえぬ心地よさを得て、その魅力に導かれて
自ずから集い、天下普くこれに従いて安んずるを得るに至る。

 なお、別の解し方としては、以下のように器と量を別個に解する場合もある。 
器は人を一つの“うつわ”に例えたもので、その人の表面的な才能・知識・技能をいう。 
量はであるから、容れる部分、つまり内面的な威徳・人格・性情をいう。 

故に“器量よし”は、内面外面ともに優れていることを称える言葉になり、
“器量人”という場合には、才徳共に衆に優れていることを指す。 
ただ、“器量よし”は外面の美しさを称える場合もあるが、“器量人”の場合には、
自然にして人を然らしめる風を感ずる場合に用いることが多く、外面的な人に
優れる部分を称える言葉としては用いられない。 


一方、度量は、長さと容積、尺と枡、心が広く、人をよくうけいれる性質。
度量の大きさとは『謙虚さ』と『寛容さ』とも言う。
また、『中庸』ともいう。
「中庸」の「中」とは、偏らない、しかし、決して過不及の中間をとりさえすればよい
という意味ではない。常に、その時々の物事を判断する上でどちらにも偏らず、
かつ平凡な感覚でも理解できるものである。
「庸」については、朱子は、「庸、平常也」と「庸」を「平常」と解釈している。
現在、多くの学者たちは「庸」が「平凡」と「恒常」との両方の意味を含んでいると
見ている。
中庸の徳を常に発揮することは聖人でも難しい半面、学問をした人間にしか
発揮できないものではなく、誰にでも発揮することの出来るものでもある。
恒常的にいつも発揮することが、難しいことから、中庸は儒教の倫理学的な
側面における行為の基準をなす最高概念であるとされる。

度量には、相手を受け入れる大きな心が必要である。
しかし、一方沢山の相手から色々な意見を受け入れるが、自分自身の意思
において、正さや基準をもち、どちらの意見にも偏ることなく、
平常心を保つ、心の大きなことのようである。

以上から、社長は器量、ナンバー2は、度量。と言う考えが
理解できたように感じる。

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