昨日は、大阪にて祖母の一周忌法要
がありました。久し振りに、父の従姉
(祖母の姪や甥)の方、私の再従兄
叔父、叔母、そして従兄弟達、その子
供達、皆にひさしぶりに会いました。
法要のお経が終わった後の御前さん
の話で、中啓(ちゅうけい)※の話が
ありました。
「この中啓の要、が大事」
中啓というこの扇は、畳に直接数珠
などを置かないように、手を離す場
合は、このように畳に中啓をおいて
数珠を置きます。
この中啓を見て下さい、この様に、扇
を上に向け、この要の部分が、
私達とし、中啓の扇の部分、これを
祖先としたら、、何代もさかのぼって
、私達がこの世に生まれて来るには、
一体、何人の方々、10代、20代さか
のぼると何百万、何千万の御先祖
がいらっしゃり、私達がいます。
また、この扇を下に向けると、どう
でしょう? やはり、要に私達が
いると、そのいることで、これから
未来において、何代も続いていくと
私達の子孫は、沢山に増えて行き、
その中に、世界を救う、いや宇宙を救う子孫が生まれて来るかもしれませんね!
死ぬことなく、しっかりと生きて、生き抜いて、子孫を育て、がんばりましょうね!
と話をされました。
確かに、時の流れの中に私達は、今生を受けて、生かされています。そして
この法要の時に、こんなに沢山の親族が集まり、一緒にお経を上げ、その後
一緒にお食事が出来る事は、幸せでなりません。
中啓の扇でお話を頂いた通りに、祖母が要とすると、沢山の縁を頂き、親戚と
して沢山話しが出来る事は、幸せなことだなと、祖先に感謝の気持ちで一杯
となりました。
法要の後の食事会で、父が作成してくれた、DVDを見て、さらに感謝すべき事
祖母が、祖父の仕事の関係で、中国満州において、生活していた頃、昭和16年
まもなく、大東亜戦争が始まるということで、祖父は兵隊へ、そして祖母は、
身ごもった体(つまり、私の父がお腹にいている状態)で、よくぞ、日本に帰って
来てくださった!幼い父の姉を連れ、妊婦でありながら、満州から朝鮮半島に
出て、船で九州にそして電車で大阪まで帰って来てくださった!
感謝で感謝で、DVDを見ながら、泣いてしまいました。
祖母がもし帰ってこれなかったら、私は今ココにいない、、、
感謝の念が、本当に 心のそこから出てきました。おばあちゃんありがとう!
その祖母、祖父が戦後築いた生地屋からアパレル、父が継ぎ、そして弟が
継ぎ、私はその衣装を使わせて頂いて、結婚式場をさせて頂いた事。
血族のルーツ、そして商売のルーツ、先祖の努力、継承が、とても感じた
法要とないました。今日もまた、がんばります!!
※中啓(ちゅうけい) Wikipediaより
中啓(ちゅうけい)とは、扇の一種。末広(すえひろ)ともいう。
中啓は親骨が要よりも外側に反ったかたちをしており、折りたたんだ時、
銀杏の葉のように扇の上端がひろがる。「啓」とは「啓く」(ひらく : 開く)と
いう意味で、折り畳んでいながら上端が「中ば(半ば)啓く」という状態から
中啓と名付けられた。
日本で発明された扇はもともと骨の片面に紙を貼ったもので、これは
開くと扇の裏面に骨が露出するという形式であった。日本の扇が中国に
輸出されると、中国では両面に紙を貼る形態に改造された。
これが日本に逆輸入され、日本でも室町時代には両面に紙を貼ったもの
が作られるようになったが、そうすると畳んだ時の厚みが倍となるので、
おのずと扇の上端が広がる格好となる。これが中啓の起りである。
そののち扇の製法が進み、両面貼りでも現在見られる末が広がらない
扇(これを沈折〈しずめおり〉という)が造られるようになるが、
中啓は末の開いたままの状態を維持し、公家や武家において笏のように
儀礼の具とした。
公家では檜扇を扇の中でもっとも正式なものとしたが、中啓はその檜扇
に次ぐものとされ、徳川家をはじめとする大名家では
直垂・布衣・大紋着用の際の持ち物とされた。
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