2014年7月21日月曜日

祭祀にいそしむこと

今日は、「祭祀」について、考える  
時間があった。先日、読んだ本に
もその事があり、興味深く、まとめ
てみることにしました。

「祭祀」は「サイシ」というが、国語
では、「マツリ」と訓読みされる。
この「まつり」は、古典の中に六種
類ある。
・祭   (延喜式)
・祭祀 (日本書紀)
・祀   (大宝律)
・奠   (日本書紀)
・祠祀 (日本書紀)
・祀典 (古語拾遺)
そのうち、「祭」「祭祀」の「祭」は、手に肉を捧げて神に供える義「奠」酒樽を
台の上に載せて神に供える義を示す合意文字である。
神を祭って食物を捧げる我が国の祭りにこの文字を宛てたのであろう。
「祠祀」とあるのは、神を祭るホコラがあって、そこで祭る場合をいい、
「祀典」とあるのは、その祭が一定の儀式になっていることを前提としたもの。

祭の古い姿の代表的な一例を「天岩戸開き」の祭にとってみると、ここでは祭の
あるべき姿を表現している。
天照大御神の天岩戸隠りは、弟神の須佐之男命の乱暴が原因とされている。

その乱暴に対しても、大御神は、初めは、「詔り直し」の精神で、これを善意に
解釈し、一日も早く須佐之男命の回心を祈られのであるが、最後に衣織女を
死に到らしめるに及んで、それを見畏(かしこ)みて、天岩戸隠りによって、
高天原も葦原中津国も暗黒の世界となり、万の妖(わざわい)が悉く(ことごとく)
に発生するに至った。

これは神のない世界は暗黒の世界であり、万の妖(わざわい)の発生する
ものであることを意味する。その暗黒万の妖の原因は、人間が
乱暴狼籍、勝手気ままで、人の善意を無視すること
(=これが罪穢れである)、から生まれるものであることが、ここに
明らかになる。

この穢れを払いのけて、再び天照大御神のご出現
を祈願するのが天岩戸開きの祭である。

日本人社会の中では、農業することから四季があり、その四季の節目に祭をし
感謝を捧げた。日本の祭りは、実際の国民生活に関係しないものはない。
それぞれの家、家庭においても「宅神祭」として行われてきた。

明治天皇の御製に、
わが国は 神のすえなり 神祭る  
     昔の手ぶり 忘るなよゆめ

とこしへに 国まもります 天地の
     神のまつりを おろそかにすな

とあるのは、「神の恵みと祖先の恩」に感謝する「まつり」の
精神を大切にしようというメッセージである。

祭祀にいそしむことは、とても大切です、
毎日の生活において、日々真剣に
明き清きまことの心を持って、努めて参りたい。

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