就職活動をしている学生さんから、就職の相談を受けた。私の学生の頃の就職活動を振り返って考えてみても、あまり参考にならない。当時は平成四年と言う、バブル経済最後の年(後から考えると)で、しかし各企業には、今は一時的に経済が落ちているけれども、またすぐに戻るよ、と言った考えのある時期でもあったので、学生は、企業を選ぶ立場だったからだ。
大学の卒業者名簿を購入し、行きたい業種や話を聞いてみたい業種の会社にいる、OBへ電話をする、、「〇〇大学、経営学部の川辺ですが、〇〇様いらっしゃいますでしょうか?」最初の五社ぐらいまでは、電話越しでも緊張をして、正座をして、汗をかきかき電話をした。
五社過ぎた頃から、馴れない丁寧語もなれるようになり、流暢に口が回るようになる。
よし、昼は、メーカーで、三時は、銀行で、夜は商社のしよう。と当時住んでいてた横浜から、
東京まで毎日大学の初めてお会いするOBに話を聞きに行く。
初めから、毎日行く予定だったので、定期まで購入した。
お昼は、メーカーに行くとランチを御馳走してくださった、そして御馳走の後に、当時のベストセラーの『面接の達人』(めんたつと呼んでいた)のマニュアル通りに、御礼状のはがきを書く。
昼ごろは、ほぼターミナルにいたので、百貨店の屋上で休みながら御礼状を書いた。
書いた頃には、三時になって、銀行の締まる三時にお茶を飲みに行く、銀行は、大学のゼミが「銀行のゼミ」だったし、卒業論文が『ユニバーサル銀行に変貌する日本の銀行』を書いていたこともあり、訪問していた。 夜は、本命の商社。商社の先輩は、いつも七時頃、どこかのレストランで夕食を御馳走してくださった。
そんな、ランチ、お茶、ディナーの毎日が私の就職活動だった。
毎日会う先輩から、その一年上の先輩に紹介をして頂き、一年上に上がることが、面接合格の標だった。
五十社八十人ぐらいの先輩にお会いした頃には、自分自身も就職の方向が決まっていた。
始めは、住んでいた下宿の隣の部屋の同じ年の先輩(私が浪人で大学に入ったので)に
誘われた銀行に、行く気は、なかった。
三時に、なかなかどこの会社も会ってくれなかったが、銀行だけがどうも三時が都合が良いと言われて、お茶を飲みに行ってたつもりの銀行が、私の行きたい会社になっていた。
いや違う、銀行員になりたいのではなく、あの当時の「〇〇先輩」になりたかったのだ。
先ほど書いたように、OB訪問をしていくと、どんどんと上の先輩にお会いする。すると、面白いことに入社十年目の先輩は皆、業種ではなく、その会社によっての顔が違うのである。同じ業種でも全然顔が違い、話し方も、スーツの着方も、違った。
就職活動は、どの業種に就職するかで始まったが、どの会社のどんな先輩に成りたいか、自分が就職して社会人になったら十年目にあんな人間になりたいと言う会社に方向が決まった。
そんな、人を見るようになっていた。生意気な学生が、私の就職活動である。
今は、どんな状況かと言うと、企業の方が強く、学生の立場の方が選ばれる立場で弱い。また、終身雇用ではあるが、ずっと同じ会社にいようと思っている人は本当に少なくなった。
安定や終身雇用を望むのであれば、公務員か小中高や大学の教員、なのか?
また、生き残っている企業は、ほぼ国際企業となり、英語が社内公用語となっている会社が多い。大学で勉強している内容と企業が求めている人材が違うのではないか?
業種もメーカーからサービス業の方が、就職口が多くなっている。サービス業に行くのであれば、美容師や調理師や国家試験の免許を持っている方がいい。
しかし一番の問題は、大学や専門学校を卒業し、就職する時までに自分は何になりたいのか、将来が描けないことか?しかし、私自身も就職活動をして沢山の企業の沢山の先輩にお会いして始めたわかったようにも思う。使命や天命と言うのもよく話もするが、実際にわかったように思うのも四十歳になってから、、、
唯一つ言えることは、何か一つ長く続けることが大事なのではないか?
『自分が好きでずっと続けていること』これを持つ人間が、人物が、どの業種に行くにしてもどの企業に行くにしても、企業の人間が欲しい人物なのかもしれない。
自分が好きで継続していることを今日からでも自分自身で見つけて、動き出すべきと話をした。
今、今日、成長している人気企業が、十年後、二十年後、どうなっているかは、誰にもわからない
でも自分自身は、自分が決めて進んでいかにといけない、そんな時に、自分を助けてくれるのが、その継続してきた好きな事だと思う。そんな意味でも自分の人生を振り返った時に、これだけは、と言う継続してきたものを持っていると人生が豊かになる。
是非、今日からでも何か一つ始めてほしい。
就職頑張って、、、
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