2014年1月14日火曜日

「和をもって貴しとなす」、神道と仏教が上手く共存できる国、日本の源流。

先日、「日本がもっと好きになる」      
という小冊子を頂きました。
それを読んでいく中で、
「本当に素晴らしい国、日本」
「その誇り高く生きた日本人の歴史」
を改めて感じ入りました。
これらを伝えるのは、我々の使命
だと、さらに気持ちが強くなった。

日本の神話、縄文時代の日本人の
生き方、などを勉強していくと、
日本人は、自然との共生の中で
育まれた感謝の心を持っている。
日本人は、自然を征服するという
考えでなく、自然と対話をし、豊富な
海の幸、山の幸に感謝しつつ、それ
らを上手に頂きながら暮らしてきた。

これは、まさに、聖徳太子の
「和をもって貴しと為す、
忤(さか)らふこと無き
を宗と為す」    
          
というと言う、国家の道徳規範である
十七条憲法の第一条に記されたこの
言葉があてはまる。

「和の精神」を大切にする日本人を知る
為に、今日は、聖徳太子について、
太子が行ってきた沢山の事を、まとめて
みた。日本においての神道と仏教の
共存の歴史がここにあることがわかる。

太子の生まれた背景を見ると、日本に
仏教が伝来した頃であり、その仏教を
巡り対立が深まっていた。

大和朝廷においての
軍事、宗教を司った物部氏は神道を重んじ、
財政管理を担当し、渡来人を積極的に保護し、天皇家(大王)と密接な婚姻関係を
築く蘇我氏は、仏教を推進した。この物部氏と蘇我氏の対立している中、蘇我馬子
の姪・穴穂部間人皇女と橘豊日皇子(後の用明天皇)の長子として生を受ける。

太子は、推古天皇の摂政として大活躍する。冠位十二階を定め、家柄や身分より個人
の能力を重視した人材登用を行う。これは、天皇を頂点とした中央集権化になる。
十二冠位は、儒教思想があり、「仁、礼、信、義、智」とそれを包括する「徳」を最上位
し、「大」、「小」を設けて十二段階とした。

十七条憲法は仏教思想を根底にすえ、上下の秩序の遵守を旨とする儒教思想や、
信賞必罰を旨とする法家思想などを取り入れて作成された。天皇を頂点とし、官と民
が互いの領域を越えず、一丸となって誠意と精励を尽くすという、仏国浄土的な
理想国家が描かれている。

また、太子は新しい国造りのために、中国の隋に遣隋使を派遣し、進んだ制度や文化
を導入した。その際、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙なきや」
(日が昇る国の天子から、日が沈む国の天子にあてて手紙を送ります。ご無事で
おすごしですか)という手紙を皇帝の煬帝に送っている。 そこには小国として、大国に
学ぶべきことは学ぶ姿勢をとりながらも、独立国としては中国とは対等であるという
気概が込められていた。

610年2月1日、推古天皇の神衹祭祀の詔を発布。
「群臣とも一致団結して我国の神々を祀るべし」と皇族、群臣に対して、日本固有の
神々を祀ることを義務ずけた。

神道と仏教が共存しながら今日にいたる源流ともなる
基本形をつくったのが聖徳太子だった。





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