2014年1月29日水曜日

曹洞宗の開祖で、坐禅の道元

曹洞宗の開祖で、坐禅の道元の
著作である『正法眼蔵』から、特に
在家信徒への布教を念頭におき、
重要な点を抜粋したものに
、『修証義』(しゅしょう
ぎ)がある。

私の母方の実家が、曹洞宗でも
ありこの修証義に出会った。
この経本の中でも、人間、誰もが
人生は、一度きり!
大切に、感謝を持って
、思い切り生きよう!
書いているように、私には思える
好きな部分を今日は、ご紹介した
い。お経ではあるが、「修身」が、
書いてある。

第一章の総序の部分の一部

生を明(あき)らめ死を明(あき)
らむるは仏家一大事の因縁なり、           
生死(しょうじ)の中に仏あれば生死
なし、但生死即ち涅槃(ねはん)と
心得て、生死として厭(いと)うべき
もなく、涅槃として欣(ねご)うべき
もなし(=歓ぶもなし)、この時初めて生死を離(はな)るる分あり、唯一
大事因縁と究尽(ぐうじん)すべし。

人身得ること難(かた)し、仏法値(お)うこと希(ま)れなり、今我等(われら)
宿善(しゅくぜん)の助くるに依りて、已(すで)に受け難き人身を受けたる
のみに非(あら)ず、遇(あ)い難き仏法に値(あ)い奉れり、生死の中の
善心(ぜんしょう)、最勝(さいしょう)の生(しょう)なるべし、最勝の善身を
徒(いたずら)らにして露命(ろめい)を無常の風に任すこと勿(なか)れ。

無常憑(たの)み難し、知らず露命いかなる道の草にか落ちん、身已に
私に非ず、命は光陰(こういん)に移されて暫(しばら)くも停(とど)め
難し、紅顔(こうがん)いずくへか去りにし、尋ねんとするに蹤跡(しょうせき)
なし、熟観(つらつらかん)ずる所に往事(おうじ)の再び逢(お)うべからざる
多し、無常忽(たちま)ちに到るときは国王大臣親暱従僕妻子珍宝
(こくおうだいじんしんじつじゅうぼくさいしちんぽう)たすくる無し、
唯独(ただひと)り黄泉に趣(おもむ)くのみなり、己(おのれ)に随(したが)い
行くは只是れ善悪業等のみなり。

<現代語訳>
 我々が生きているということは、どういうことか、死とはどういうことか、
その真実をはっきり見極めるのが仏教者として最も根本的問題であります。
 生まれてから死ぬまで、我々は迷い苦しみのまっただ中に生きているよう
ですが、その生まれてから、死ぬまでの生きている現実の中にこそ仏
(覚ったひと)はいるのですから、迷い苦しむ生活としての生死はないのです。
 ただこの生まれてきてから死ぬまでの現実そのものが、不生不滅の涅槃
(さとり)の境地と心得たらいいのであって、そうなると、嫌がり、嫌うべき生死
という迷いの生活もなく、願いを求めるべき涅槃(さとり)の境地というものも
ありません。こうなった時、はじめて生まれてから死ぬまで迷い苦しむ世界
から完全に縁が切れた生き方が自分のものになります。
 生を明らかにし死を明らかにする、ただこれこそが一番大事な根本問題
であるということに徹底しなさい。
 人間の身に生まれてくることは、非常に得難いことであり、その上、仏法
にめぐりあうことも滅多にないことです。我々は今、前世で行った善根の力
に助けられて、このように得難い人間の身に生まれてきたばかりでなく、滅多
にめぐりあえない仏法にもめぐりあわせていただいているのです。
 生まれては死ぬ存在の中では、一番善(めぐま)れた生涯であり、最高に
すぐれた善(めぐま)れた身を無駄にして、露のようにはかないく消える命を
無常(死)の風の吹くに任せて終わらせてはなりません。
 死(無常)というものは、いつやってくるか、予想もつかないものです。草叢
に宿る命のようなはかない命は、いつ、どこで消えるか全くわからないものです。
大体、自分のこの身体というものが、(因縁和合でできているもので)自分の
ものではありません。命はまた、光陰と共に先が短くなるもので、ちょっとの間
も引き止めておけるものではありません。少年の日の若さにあふれたあの顔は
どこへいってしまったのでしょう。探し求めようとしても、あとかたもありません。
よくよく観察してみると、過ぎ去ったことは、二度とめぐり逢えないことです。
 死(無常)が突然やってきた時には、国王も大臣も、親しい友も従う部下も
妻子も財産も、手を貸してはくれるわけにはいかないのです。たった一人で
黄泉(あのよ)へ旅立つばかりです。どこまでも自分についてくるものといっては、
ただ自分が作った善行・悪行ばかりです。

0 件のコメント:

コメントを投稿