2014年5月27日火曜日

思いやりを空回りさせないために

思いやりを空回りさせないための秘策と言う言葉を知った。良かれと思い、行う行動に
空回りという時がある。 空回りした場合は、おせっかいとも、責任感がないとも
相手に取られるので、とても難しいものである。

論語の中に、この思いやりについて、書いてある、

子曰く、参や、吾が道一以てこれを貫くと。
曾子曰く、唯(い)と。
子出づ。門人問うて曰く、何の謂ぞやと。
曾子曰く、夫子の道は、忠恕のみ。

孔子が言う、学問の方法は数多くあるのではんく、世に処し物に応じる
のに、ただ一つだけでこれを貫くのである。
曾子が言う、はいその一つだけです。
孔子が出て行った後、曾子の門人が、孔子先生のおっしゃった唯一つ
というのは、なんですか?
曾子が言う、孔子先生の道は忠恕だけである。
別に他の方法はないと言う意味です。

忠恕(ちゅうじょ)、忠とは衷心(ちゅうしん)よりの誠意懇情を尽くし、
事に臨んで親切を第一とすることを言う。また恕とは、ひらたくいえば
「思いやり」と同じ意味で、事にあたって先方の立場になり、先方の心理状態
になって考察してやることである。
ただし忠と恕とは個々別々のものではない。忠と恕とを一つにした
「忠恕」と言うものが、孔子の一貫した精神であると同時に『論語』を貫く
精神である。

恕は、この漢字に表れている、「心の如く」、己の心の如く相手に施す、
「己の欲せざる所は人に施すことなかれ」である。つまり、
「己が立たんと欲すれば人を立て、己達せんと欲すれば人を達す。」
この恕の精神を貫く人を仁者と呼ぶ。仁者に敵なしとはこのことになる。

人の世で生きるために何よりも大切なものは忠恕の精神すなわち
仁道であるが、この精神を実行しようとするためには、知略をともなわなければ
ならない。知略のともなわない精神だけでは、ものにならず、知略は、忠恕の
精神が中核となって活動するさいの欠くことのできない助手である。

知とは知恵のことで、事物を観察して理非を判断する力を言う。この判断力が
なければ、いかに忠恕の精神を行なおうとしても、これをいかに処理すれば
よいか見当がつかなくなる。
また略がなければ、忠恕の精神を実行しても、かえって他人に迷惑をかけるような
結果になるものである。略、臨機応変の工夫が必要である。

知略だけがあって忠恕の精神に欠けた人の行動は、いたずらに恩威
(恩恵と威光)だけを人に臨み、少しの温情もなく、また正直なところがないから、
人心も社会も動かすことはできない。

人の役に立とうと、その人の気持ちに立って行動することは、とても大切で
ある、しかしその場面において、事物の観察を深く理非して判断をする
必要がある。そうでないと、忠恕の精神においてもできることできない事
が発生し、やってあげると喜ぶとわかるけれども、やる場合には、
きっちりとこのような場合もあるので、理非、出来る出来ないまでもすべて
説明をして忠恕の精神を貫く、必要がある。

思いやりが、「おせっかい」や「余計なお世話」にならないように、
さらに次の段階までの準備をしてから、忠恕の精神で「思いやり」の行動
をする必要がある。

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