2013年9月30日月曜日

大阪天満宮の摂社、故郷の産土神社、大将軍社

今日は、出張中の大阪からのブログになります。私の故郷、大阪市中央区昔は、
東区の産土神社さん
大阪天満宮の摂社、大将軍社です。

大将軍社さんのあった場所に大阪天満宮が
創建されたと歴史には残っております。
すなわち、この地のもともとの産土の大神
様になります。

産土=生まれし時の土地の神様。
産土には、自分の生まれた場所にとても関係
があります。同じ兄弟でも、産婦人科が、東京
や大阪の場合があると思います。
うちの夫婦の場合は、長男次男は、大阪で        
三男は東京で出産となりますが、
三人の産土神社は、その当時の両親
私たち夫婦の住んでいた住所からの縁で
産土神社が決まります。

それにともない、今日の話題は、大阪天満宮
の摂社、私の産土神社大将軍社です。

大阪天満宮の摂社、大将軍社の創祀は、
大阪天満宮の鎮座よりも二五〇年も遡る。
 大化改新を受けて、白雉元年(六五〇)に、
孝徳天皇は難波長柄豊碕宮(中央区
法円坂)に遷都された。        

これ以後、毎年六月と一二月の晦日には、
都への四方からの進入路上で、「八衢比古
(やちまたひこ)神・八衢比売(やちまたひめ)神・
久那斗(くなど)神」の三神を饗応(きょうおう)
し、「鬼魅(もののけ)」が都に入るのを防ぐ          
道饗祭(みちあえのまつり)が行われた。
当時の人々が最も恐れた鬼魅は疫病、特に
疱瘡であった。道饗祭において、疫神である
「八衢比古神・八衢比売神」と、異境の悪神を
避ける「久那斗神」を祀ったのは、そのため
であった。

大将軍社の創祀から二百年余り経った延喜
元年(九〇一)、菅原道真公は大阪天満宮
に参拝した後、太宰府へ船出したと伝える。
大将軍神は方伯神、特に西方を司る神
であったから、菅公も太宰府への西路の
無事を祈られたのであろう。
       
それから、さらに半世紀後の天暦三年(九四九)
のある夜、大将軍社の前に突如として七本の松が
生え出たという。松の梢は夜な夜な光り輝き、
時の村上天皇は、これを菅公に縁りの奇瑞として、
大阪天満宮を建立されたのである。
                                                              
この七本松も、当地が松林の広がる     
場所であったことを表現しているだけ
ではなく、梢が光り輝くことから判る
ように、やはり星辰信仰の影響を
受けた伝承だったのである。

大阪天満宮の摂社、末社の歴史も深く
今後も研究したい。
                                                                                    

時代背景があるにせよ、
陰陽道の影響や疫病、等の
民衆が苦しむ、さまざまな飢饉と
神社の役割や、神様に祈ることは
歴史があと考えました。

※大将軍とは、大将軍(たいしょうぐん
だいしょうぐん)は陰陽道において方位
の吉凶を司る八将神(はっしょうじん)の一。
魔王天王とも呼ばれる大鬼神。仏教での本地
他化自在天

古代中国では明けの明星啓明、宵の明星を

長庚または太白(たいはく)と呼び、軍事を

司る星神とされたが、それが日本の陰陽道に

取り入れられ、太白神や金神(こんじん)・

大将軍となった。いずれも金星に関連する

星神で、金気(ごんき)は刃物に通じ、荒ぶ

る神として、特に暦や方位の面で恐れられた。

大将軍は3年ごとに居を変え、その方角は

万事に凶とされ、特に土を動かすことが良く

ないとされた。大将軍の方角は3年間変わら

ないため、その方角を忌むことを「三年塞がり」

と呼んだ。ただし、大将軍の遊行日

(ゆぎょうび)が定められ、その間は凶事が

無いとされた。

 
 

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